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BIOGRAPHY

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​伊藤俊彦とは・・・?

1972年

青森県青森市で生まれる。

2歳までしかいなかったので

青森の記憶はない。

父親の仕事の関係で転勤族。

3歳の時

仙台の長町に住む。

​

大きな石を持ち上げて

親指を挟み

左の親指の爪が半分しかない。

ゴミ出しを手伝って

車にはねられるも

ポリバケツのおかげで

ボンネットにあげられ

九死に一生を得る

という

キャプテンの翼君みたいだが

ポリバケツは友達ではない。

​

おそらく3歳で

すでに厄年を経験したのではないか。

​

みどり幼稚園と宮古小学校1年生は

岩手の宮古に住み

卒園後も幼稚園の前を通り過ぎると

担任だった田代先生から

​

王子さま、ごきげんよう

​

と声をかけられる

王子さまキャラ​

​

昔はね。

​

小学校2年生、3年生は

仙台の西ノ平に住み

3年生の時

通っていた金剛沢小学校が

音楽研究指定校になり

5・6年生に加えて

3・4年生の合唱部が設立される。

​

別に合唱には興味などなかったのに

好きな女の子が入るというので

即、入部

​

これが歌との出会い

​

小学校4年生から

福島の郡山に家を持ったので

出身は?

と聞かれると

福島

と答えるようになる。

​

小山田小学校4年生の担任

鵜沼先生が合唱部の先生だったからか

音楽の授業で

さくらさくらを熱唱したからか

歌に興味が生まれたからか

小学校4年生から6年生まで合唱部

​

ところが

世の中はキャプテン翼のおかげで

サッカーブーム

​

もれなくサッカーにはまり

サッカー部に入りたかったが

当時は男が少ない合唱部だったので

全力で止められる

​

中学校で満を持してサッカー部に。

しかし

世の中はビーバップ全盛

サッカー部の先輩はワルばっか

​

それでもサッカーにはまり

県選抜にも選ばれ

サッカーが楽しくて仕方なかった!

​

ちなみに当時の福島の中学生の髪型は

坊主

小さいころから

オヤジに髪を切ってもらってたので

床屋経験は一度しかない

​

初めての受験を高校で経験する。

中学はいつもクラスで1,2番で

割と成績が良かったので

当時県下ナンバーワンの

安積高等学校を目指すことに。

​

とにかく数学がキライで

大学も私立文系で受けると宣言して

国公立を願う親は落胆。

​

無事に現役で高校入試を突破するも

私立文系コースは3年生から。

キライだととことんやらない性格で

数学はほとんど0点。

​

大好きだったサッカーも

だんだん練習が苦痛になり

うまくもないのに中途半端に

レギュラーに選ばれてしまう自分が

イヤになるという

意味不明な偏屈ぶりで

顧問の善一郎が

ことあるごとに言い放つ

​

やるかやめるかどっちかや~!

​

という言葉に

ある日突然ものすごく理不尽さを感じ

そう言えば辞めないと思ってんだろ?

​と偏屈スイッチが入り

​

じゃあ辞めます!

​

と啖呵を切って辞めてしまう。

​

高校2年生の春だったので

さて

これからどうしよう?

と思ったときによぎったのが

​

歌うこと

​

だった。

当時は1980年代後半

イカ天よろしくバンドブーム

​

高校には二つの音楽サークルがあった。

フォークソング同好会

と

ギター同好会

 

なぜかフォークソング同好会は

ヘビメタバンドのカバー

ギター同好会は

ハウンドドッグのカバーをしていた。

 

おそるおそる部室のドアをノックして

あのー、ギターやりたいんですけどぉ。​

ギター同好会の門をたたいた。

​

そこから何日かして

ちらっと歌ってみたら

​

お、いいじゃん、ヴォーカルやるか?

​

しめしめ。

初めからその狙い

 

しかし3年生になり

いざ自分が3年になると

部員は4人。

しかも部長をさせられ

史上初

ギターの弾けないギター同好会部長

となる。

もちろん新入生は入らず

いまもあるのかは疑問。

先輩、すみません!

 

ちなみにこの高校では

校内模試50番以内の成績優秀者や

スポーツでの成績優秀者に

エフォート(努力)鉛筆​

という金色の鉛筆が贈られる。

卒業までにこの鉛筆を

何本もらうことができるのかが

この高校でのステータス。

​

あたくしの総獲得数は2本!

​

高校生ながらまさかの無遅刻無欠席の

皆勤賞

と

ギター同好会部長としての功績として。

​

ギター弾けないのにっ!

​で、どっちも成績関係ない!

​

子供のころの

お遊戯会や発表会の記憶はまるでない。

やったかどうかもわからない。

高校にも演劇部はあった。

だけど

わけのわからないハイテンションな雰囲気に

​

・・・ひいた。​

​

でも

幼少期から

ジャッキー・チェンや

ハリウッド映画が大好きで

封切り初日には

必ず並んでみるほどの映画好きだった。

​

高校時代は

福島に来る映画は全部観る!

と受験生にも関わらず

週末は映画三昧。

​

毎月初めに

近所の雑貨屋がこっそり売っていた

系列の株主券を買い占め

当時は同時上映だったので

500円で2本映画を見ることができた。

​

県下一の進学校では

土曜日の午前中で授業が終わると

午後はみんな

予備校の自習室に潜り込んで

勉強をするのが当たり前。

しかし

あたくしは一人映画館で

サタデーアフタヌーンシアター!

​

エンドクレジットが流れて

明かりがつくと

映画館に一人だけ!

まるで自分だけの映画館のような

貸し切り状態がよくあったものだ。

 

そんな高校3年生の冬

ハリウッド映画『クライシス2050』

という映画に出演していた

一人の日本人俳優

「別所哲也」を知る。

​

必ず買っていたパンフレットで

慶応大学で英語劇を学び

その後単身アメリカへ。

という経歴を知り

​

そうか!英語劇をやりに大学へ行こう!

​

と大きな希望に突き動かされ

高3の冬にして

ようやく受験勉強に目覚める。

​

「英語劇をやりたい!」

​

という理由だけで

そこで英語劇ができるのかも知らずに

とにかく名だたる文学部や

外国語学科をチョイス。

​

ところが

校内模試450人中400番台常連の

落ちこぼれだったあたくしは

担任の先生から

​

「伊藤君、まず無理だな~い。」

​

と止められるも

得意の英語と

数々の映画で得たエピソードを

アレンジして使う

独創的な小論文の構成力

さらに世界史は

教科書をページも含め

すべてチェックペンで塗りつぶし

すべて暗記!

という

役者の原点のような受験スタイルで

まさかの!

​

立教大学文学部英米文学科

青山学院大学文学部英米文学科

獨協大学外国語学部英語学科

 

に合格!

​

リベラルな雰囲気の立教に進学を決め

英語劇ができる環境を探していると

​

ESS(English Speaking Society)

​

という英語サークルに勧誘される。

それこそが再び運命の出会い!

​

その中にある

「Drama Section」

という英語劇をやる部門こそ

立教、早稲田、慶応

一橋&津田塾からなる

​

四大学英語劇大会

(Four University English Theatrical)

 

という

戦前から続く由緒ある英語劇大会で

優勝やプライズをかけて戦う

本格的な英語劇サークルで

まさに別所哲也さんが

慶応で活躍した英語劇大会だったのだ!

​

しかし大会は年に一回・・・!

 

「それでは足りんわっ!」

 

と英語で芝居ができる場を求め

​

MP(Model Production)

BBP(Beyond Broadway Production)

MLS(Model Language studio)

 

などの学生英語劇団体や英語学校

​​

さらに

​

UPS(United Performers Studio)

 

という

ニューヨークの

アクターズスタジオのメソード

を教えるアクティングセミナーに通い

奈良橋陽子さん、フランク・カサロ氏

等からメソード演技の基礎を学ぶ。

 

さらには卒業前に

アメリカ・イギリス・日本の

三国共同プロダクション

という

夢のような環境を掲げた

新潟のアメリカンドラマスクール

のオーディションに合格。

​

海外から来たアーティストの

レッスンを受けながら

しかも学費免除の

インターンシップステューデント

として招聘され

ミュージカルやオリジナルプレイの

ラインナップが揃うプロダクションで

舞台に立ちながら

パフォーミングアーツの

様々な分野を勉強できる!

 

「なぜ新潟?」

​

などと疑問をいだくこともなく

卒業と同時に

まさかの未体験ゾーン新潟へ!

 

・・・しかし

理想とはかけ離れた環境に愕然として

​

俺は何をしに

新潟なんかまで来てしまったんだろう?

​

と

日本海の夕日

に後悔を叫ぶ日々であったが

​

「タップダンスでもやってみようかな。」

​

と軽い気持ちで見つけたクラスで

恩師・田澤澄子先生と出会う。

​

長岡市で

バレエとタップダンスを教える先生は

​

洋舞の世界だけでは狭い

いろんなジャンルの人たちと

作品が作りたい

​

とあたくしを面白がってくれて

先生のおかげで

たくさんの新潟の文化に触れ

様々な芸術活動を知っていくうちに

数々のクリエイティブな出会いと

コラボレートする楽しさに目覚め

素晴らしい人たちと出会い

2年間の貴重で人生成長期間を過ごす。

 

そこで遅ればせながら

当たり前のことに気づく。

 

​「俺・・・日本人じゃん。」

 

​同じ日本人だからこそ

どこか日本語のセリフが芝居くさく

恥ずかしく聞こえてた。

英語だと芝居がデカいのに

何故か心の奥の本当の気持ちを

伝えられているように感じられてた。

いや

たくさんの人種と

たくさんの文化が渦巻く

多様性のある

アメリカへの憧れだったのだろう。

 

日本人なのに

日本語で芝居ができなくてどうする!

​

そんな1997年

解散した「音楽座」が復活し

全国オーディションが行われる。

​

東京に戻るきっかけにしたい

​

とオーディションを受け

最終通過の70名に残る。

残った70名は

「パワーキャンプ」と称される

一か月のオーディションワークショップ

に参加。

歌もバレエもジャズも

初級クラスと上級クラスが選べたのだが

​

これもオーディションの延長だ!

​

と何の迷いもなく上級クラスを選択。

踊れも歌えもしないのに。

​

最終選考で

​

踊れない、歌えない

変わったやつが来たなと思っていたが

この一か月の頑張りを見て

新しい風を入れてみたいと思った

​

とまさかの主役に抜擢。

​

しかし当時は25歳のとんがりコーン

​

自分に対する根拠のない自信

と

つまらない意地

で

自分を主張してしまう時期。

​

いろいろとうまくいかずに

パンフレットにも載ったまま

結局

開幕直前で主役を降ろされる。

​

露と消えにしパルコ劇場主演・・・

​

でもその経験のおかげで

本格的にミュージカルの世界と出会い

ミュージカル仲間とのつながりで

今の自分があるのは

紛れもない事実。

 

​以後、東京に拠点を戻し

とにかく場数が踏みたくて

違うアプローチや可能性を探りたい!

と

相変わらず劇団や事務所には所属せずに

数々の小劇場の舞台や

オペラの助演などで経験を積む。

​

特に

今は亡きアニキ

今井雅之さんの代表作

『Winds of GOD』

が大好きで

最初の映画には

エキストラで出させてもらい

個人的には2度

台本を借りて自主公演で

この作品で、しかも

今井さん演じた主人公「アニキ」

をやらせてもらった。

​

2000年

チャンスが到来する。

ウインズを

ロンドンで英語上演するにあたって

オーディションをするというのだ。

​

すぐさま

昔、ともにウインズやった

英語劇出身の親友・田中伸一を誘い

オーディションを受け

最終まで残るも

奇しくも田中と二人で

同じ役候補のラスト二人。

田中はカナダ育ちのバリバリの帰国子女で

背も高く、バランスもいい。

​

半ば厳しさを感じながら

最後の質問で今井さんが聞く。

​

やれるならどの役がいい?

​

あたくしは迷わず答える。

​

アニキです

​

・・・いや、アニキは俺だから。

他は?

​

アニキ以外はないですね

​

ホント、バカなんでしょうね。

​

でもそれが正直な気持ちだったんです。

​

それが印象に残ったのか

今井さんから

​

俺のアンダーやらないか?

​

今井さんは演出なので

本番以外はアンダーに任せていた。

​

なのであたくしは

稽古場から

ロンドンの劇場での場当たりまで

アニキとして生きることができ

もちろん本番に立つことはなかったが

主役として何が必要かということを

たくさん教えていただいた。

​

そして2003年

​

東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』

 

に合格!と同時に

 

トム・クルーズ主演の『The Last Samurai』

 

のオーディションで戦闘チーム

「Battle Core(バトルコア)」

として合格!

​

どちらかは諦めなくてはいけない状況の中

奇跡的にどちらにも関わることができ

3か月ニュージーランドでの撮影に参加。

 

「バトルコア」とは

スタントとエキストラの間で

迫力のある戦闘シーンを作るための

重要なポジション。

​

15分のラストバトルシーンのために

2週間かけて

刀と銃剣のバトル・弓

軍隊の基本行動・隊列・鉄砲

等の訓練をし

6週間かけて様々なバトルの素材を撮る。

これでもかってくらい撮る!

​

連日の戦闘シーンの撮影の中

アップショットももらえてたので

ドキドキしながらプレミアを観たが・・・

​

ことごとくカット・・・

​

結果映ったのは

自分の撮影がオフの日に

出たい人は参加してという

​横浜港のエキストラのシーン

​

まあ、海外でたくさんの訓練をして

一流のスタッフ・キャストと

ハリウッドの大作映画に出演できた経験と

エンドクレジットには

「BATTLE  CORE」として

 

TOSHIHIKO ITO

​

の名前は刻まれたので一応

​

「ハリウッドデビュー」

​

としておく。

​

『レ・ミゼラブル』は

2003年~2009年まで

オリジナル演出で「グランテール」役を

一度は離れたものの

8年のブランクを経て

再び2017年より2021年まで

新演出版に「工場長」役で出演。

​

ちなみに2003年の『レ・ミゼラブル』で

別所哲也さんと

夢の初共演を果たすことになる。

​

ただの映画好きだった福島の少年が

スクリーンで見た俳優のいきざまに

触発され

役者を目指し

やがて夢の競演を果たすとは。

​

人生はドラマチック

​

その後は

役者として

関われることには果敢にチャレンジし

ストレートプレイ

ミュージカル

オペラ

ナレーション

語り

等

舞台を中心に活動。

​

フリーなので

なかなか映像には縁がないが

 

三池崇史監督の

『スキヤキウエスタン・ジャンゴ』

​

門井肇監督の

『ナイトピープル』

 

では、どちらもワンシーンながら

アクの強い印象を残す。

 

また数々のTVCMナレーションで

「声」

でも活躍。

​

カネボウ化粧品の

「KATE」

では

木村カエラをミューズに迎えたシリーズで

すべてのナレーションを

毎回オーディション本番で勝ち取り

オンエアに結び付けた。

​

声優の仕事に至極憧れるが

未だ声優には縁がない


​​​2001年より先輩役者たちと立ち上げた

 

演劇ユニット「セメント金魚」

​

では

旗揚げメンバーとしてオリジナルコメディを

​

妻・伊藤鈴との朗読芝居

 

「伊藤家の晩酌」

​

では大好きな映画を

二人仕様にアレンジして

どちらもライフワークとして

不定期で上演し続けている。

​​

脚本・構成・演出等も手がけ

小劇場のアングラ作品から

大劇場のミュージカルまで

枠やスタイルにとらわれず

多角的な視点で

「役者」

として活動を続けている。

​

2022年7月で半世紀を生きる。

​

50歳までフリーで

役者を続けていられることは

奇跡であり

ご縁に感謝して

娘の成長を楽しみ​

これからも家族のために

​役者として生きていく。

​

​

​

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